依頼報告(10月26日追記)

  • 2014.10.26 Sunday
  • 22:59
少し前に依頼報告をしてきました。

以下の文章はその報告の最初の節になります。*10月26日に最終節の一部を追記。報告は、私と『古典を失った大学』(NTT出版)著者の藤本夕衣さんで、藤本さんとは報告後も色々メールにてやり取りをさせていただき、とても勉強になりました。

**********************************************
1.大学教育の分化
1-1.問題の所在
 2011年、インターネット上で関東にある私立大学の初年次教育が注目される、あるいは“炎上”するという出来事があった。「アルファベットの書き方・読 み方」等の中学生段階で学ぶような授業内容を含んでいたことが、その要因である。「それでも大学か?」という声が多数寄せられたが、大学の設置基準を満た している以上、それでも大学であり、それもまた大学教育なのだ。
 他方、2014年に文部科学省は「若い世代の『内向き志向』を克服し、国際的な産業競争力の向上や国と国の絆の強化の基盤として、グローバルな舞台に積 極的に挑戦し活躍できる人材の育成を図る」ことを目的に、「スーパーグローバル大学創生支援事業(Top Global University Project)」を立ち上げた。採択校のほとんどが、社会的にも広く名の知られた入学難易度の高い大学となっている。これもまた大学教育動向の一環であ る。日本学術振興会HPに公開されている申請書全文を読めばわかるように、採択校では高度な英語教育の推進が明記されている。
 高度な 英語運用能力等を獲得し、世界で活躍できる国際的な人材育成を目的とする大学がある一方で、初等・中等教育段階で本来は習得されているべき内容をきちんと 身につけさせるべく奮闘している大学もある。いずれも同じ大学教育である。したがって、「大学教育は○○であるべき」という規範的主張は、直ちに「それは 一体どのような大学を想定しているのか」という問いを呼び寄せざるをえない。例えば、「アルファベットの書き方・読み方」を教えるような大学は大学ではな いと、スーパーグローバル大学創生支援事業に採択された大学の教員が主張すれば、その言語行為は〈自己卓越化=差異化〉として機能し、大学教員間の不毛な分断を招くことにもなるだろう。
 上記のことをまとめると、大学教育を語るうえで、それがどのような社会的文脈に結びつけられたものかを意識する必要がある、ということである。とりわ け、そこで想定される大学生がどのような背景をもち、いかなる人生を歩んでいるのかを明らかにすることは、大学教育の効果、ならびにその責任を考えるうえ で重要であろう。


(中略)

6.大学の社会的責務―結びにかえて
6-1.まとめ
6-2.社会にとっての「大衆教育機関としての大学」
 非選抜型大学の卒業生――本報告のノンエリート大学生と同義――を対象にインタビュー調査を行った轡田竜蔵は、「大学進学は階層上昇の夢を見させる」と述べ、「学生募集に焦る非選抜型大学は、時として労働市場の実態をかんがみずに、現実離れしたキャリア・アップのイメージを煽る」と強く批判する。あわせて、そうした大学の卒業生が不安定な初期キャリアを歩んでいる現実を指摘する。しかしながら、調査対象者のほぼ全員が大学進学という選択を「よかった」と回答したといるという。少し長くなるが、その一人についての記述を引用したい。

 
 大学の専門を生かして学芸員を目指していたが、結果的にはハローワークでの求職活動を経て、専門とは全く関係のない土木建設事務所での技術職見習い工となった西山真司の事例を見てみよう。職場では、「高校中退の肉体労働系の人」が多く、「パチンコ、風俗、ギャンブル」のおしゃべりばかりしているという環境に、西山は確かに戸惑いを感じている。だが、希望職種とはまるっきり違った仕事につくことになったにもかかわらず、西山は大学に行った経験を高く評価している。友人をたくさん作り、「いろんな考え方について話し合えた」ことが何より「面白かった」からだという。そして、高校までと違い、年齢の幅も広く、「疑似的な社会勉強」ができたことは、今仕事で多様な価値観の人々とコミュニケーションをとっていくうえでもプラスになったと考えている。(轡田、2011、207頁)
 

 本報告で繰り返し述べてきたように、出身階層も低く、多様な高校の学科出身で、勉強は得意ではなく、初期キャリアでは不安定な移行をする傾向が強いのがノンエリート大学生である。かれらは1990年代後半以降の大学進学率上昇の“申し子”である。見方を変えれば、ノンエリート大学は、初等・中等教育の機能不全の責任・ツケを一手に担わされているといえる。しかしながら、そうであったとしても、ノンエリート大学には様々な点で“いたらない”かれらをそれなりの職業人・市民として社会に送り出さなければならないという経営的事情があり、また社会的責務がある。大学生の学力低下を主たる理由とし、「大学は多すぎる」との声は大きい。それでも大学か、というわけである。それでは、ノンエリート大学、特に地方のこうした大学を潰せばそれでよいのだろうか。今後更なる改善が必要として、現時点においても“いたらない”かれらをそれなりの職業人・市民として地域社会に送り出している、あるいは〈大人への移行〉を支えている、それらの大学がいま現在果たしている社会的役割を誰が担うのであろうか。
 本報告が狙いとしたのは、ノンエリート大学生を対象にどのような大学教育を行えばいいのかということだけではなく、大衆化した大学の社会的責務を問いなおす、ということであった。

*轡田(2011)は、轡田竜蔵「過剰包摂される地元志向の若者たち―地方大学出身者の比較事例分析」樋口明彦・上村泰裕・平塚眞樹編『若者問題と教育・雇用・社会保障』(法政大学出版局)。


 

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