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    セネット『それでも新資本主義についていくか』

    • 2016.02.29 Monday
    • 22:51

     ファイルを整理していると、リチャード・セネット『それでも新資本主義についていくか』の自分用メモが出てきたので、掲載します。同書を分析しているわけではなく、後で内容を思い出すためだけのメモです。若者調査の過程でアイデンティティについて考えていた時に読んでいたはず。

     短期的な社会で、どうすれば長期の目標を追求できるのか。永続的な社会関係をどう維持していくのか。挿話や断章の寄せ集めのような社会にあって、人はどうすれば自己の存在証明の物語や一生の歴史を展開することができるのか。ニューエコノミーを生きるということは、そういう問題意識は持たず、場所から場所へ、仕事から仕事へと漂流する時間に身をまかせることである。(中略)短期的資本主義は彼の人間性―とりわけ、人を互いに結びつけ、互いに支え合っているという感覚をもたらす人間的特性―を腐食させるおそれがある、ということだ。(20-21頁)

     四六時中何か試されているような、それでいて自分の正確な居場所がわからない不安感。(102頁)

     人びとが賭けに打って出るのは、自負心からではなく、打って出ないと、最初から負けを認めることになるからだ。(中略)何らかの葛藤状態に直面すると、人の注意は長期的視野よりも目先の環境に釘づけになる傾向がある。(120頁)

     問題解決のために何かできることがあるという信念をなくした人は、長期的思考を無益なものとして停止してしまうことがある。(中略)「どこへも着けない」「いつも出発点」―これが、意味のなさそうな成功と向き合わされたり、努力しても報酬を得ることが不可能なことを見せつけられた人の実感である。こうした感情の動きのなかで、次第に時間が止まっていくように感じられる。(121頁)

     人間生活をこのように浅薄なものにした原因の一つは、時間の解体にある。時の矢は折られ、うち続くリエンジニアリング、ルーチンへの反感、短期志向の政治経済のなかで軌道を失っている。人びとは長続きする人間関係や、不変の目標を喪失したと感じている。私がこれまで語ってきた人びとはみな、表面的な世界の下に時間の奥行きを見つけようとしていたが、それも、現在への心配や不安を表わすほかにはなかった。(134頁)

     ほとんどの人にとって人生の大失敗といえば、長期的な意味で自分が役立たずだと思い知らされるような個人体験であろう。IBMのプログラマーたちの体験で最も感慨深く思えたのは、彼らが自分を責めたり恥じたりせずに、失敗について率直に語るようになったことであった。しかし、そこにいたるには他者の存在を必要とし、その結果、相互の距離が縮まることになった。彼らはこの偉業―こう言っても決して大げさではないだろう―を、助け合いの必要や自分たちの力不足を恥ずかしいと思わなくなって初めて、手にしたのであった。(202-203頁)

     「誰が私を必要とするのか」―今日の資本主義の過酷な挑戦に遭難した人間性の問いである。(210頁)
     

    『「若者支援」のこれまでとこれから:協同で社会をつくる実践へ』

    • 2016.02.22 Monday
    • 23:22

     若者支援全国協同連絡会編『「若者支援」のこれまでとこれから』を読みました。若者支援に関する歴史や関連制度、様々な取組を簡潔に紹介しつつ、それらとあわせて「生きづらい」私たちの社会の在りようをわかりやすく照射する好著でした。若者支援に関する本ではありますが、色々問題を抱えた私たちの社会をどう組みなおしていくのかに関する実践論であるとも思いました。
     大切なことがいくつも書かれていますが、以下は「支援」を考えるうえで(自分が)忘れないようにしたいと思った箇所です。

    ○人々の暮らしを支える三つの要素(これらの基盤が揺らぎ、奪われていることから「生きづらさ」が生じている)

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     まず、人が人として生きていく上で最も根源的な要素としてあるのが、「自分は生きていていいんだ」「ここに居ていいんだ」という、自己・他者・社会に対する基本的な信頼です。(中略)居場所確保の支援は、最初は支援者との一対一の関係を軸に展開されることが多いですが、2人だけでは「社会」になりません。支援者との間に築かれた信頼を拠りどころにしながら、他のスタッフや同じような境遇で苦しむ若者など、支援の場を共有している人々のなかに入っていき、受け入れられていくという経験を積んでいきます。(65-66頁)

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     生活基盤は、単に経済的・物理的な資源の保障にとどまりません。日常生活における「生活リズム」もまた、重要な基盤です。社会的な場を奪われるということは、その社会に付随してくるさまざまな「予定」「目的」をも奪われることとなり、生活リズムも確保しづらくなります。(中略)相談の予定があるということ、行ってもいい場所が確保されていること、待ってくれている人がいるということ。(67-68頁)

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     居場所と生活基盤が確保されていれば、なんとか最低限生きてはいけます。しかし、それだけでは「健康で文化的な」生活とは言えません。というのも、人間は社会的かつ発達的な存在であり、「誰かと共に生きる」「自己の力を発揮する」ということへの欲求もまた根源的なものとして位置づいているからです。その両者の結節点にあるのが、「誰かの役に立つ」という、社会的な次元での自己有用感です。(中略)注意しなければいけないのが、外在的な「できる/できない」という二元的評価ではなく、「どこまでできていて、何ができていないか」という、個別具体的な状況に即した教育的評価(たとえば励ましなど)が軸に据えられていなければならないということです。たとえば、外在的な視点からすると「寝たきり」とされがちな病人も、その人自身の状態に視点を置いてとらえ直せば、「目が覚めることができる」「体を傾けることができる」などと評価することも可能です。(68-70頁)

     

    「体育会系」学生の学生生活と進路を考える資料一部

    • 2016.02.07 Sunday
    • 19:13
     以下、いわゆる「体育会系」学生の学生生活や進路について考えるための資料一部です。CiNiiで見つけたものばかりです。

    ○西島央「「体育会所属大学生の学生生活と進路形成に関するアンケート」報告 : 関東地区のラグビー部とアメリカンフットボール部を事例に」
    ○束原文郎「道内私大の<体育会系>就職 : 卒業生調査の結果から
    ○束原文郎「〈体育会系〉神話に関する予備的考察 : 〈体育会系〉と〈仕事〉に関する実証研究に向けて
    ○束原文郎「‹体育会系› 就職の起源―企業が求めた有用な身体 : 『実業之日本』の記述を手掛かりとして」
    ○小野憲一「本学の体育会に所属する学生におけるキャリア意識に関する研究 ―「 大学生のキャリアと就職に関する調査」結果を通して(1) 」
    ○高峰修「体育会学生の大学・競技生活とキャリア意識に関する調査報告」
    ○栗山靖弘「スポーツ特待生の進路形成 : 高校球児の事例を通して」
    ○葛西和恵「体育会所属新規大卒者の特性―体育会学生は企業にモテるのか?」

     もう何年も前になりますが、担当していた教職課程の授業に印象的な「体育会系」学生がおり、授業後は彼とよく話をしていました(授業についていくのが難しいということ、進路について悩んでいる等々)。その話を聞きながら、彼にとって大学は、大学生活はどういう意味を持つのだろうと考えたことが体育会系学生について考えた最初ですが、研究として形にすることなく今に至っています。
     自分の最近の関心にひきつけるのであれば、西島さんが論文のなかで「スポーツ・体育推薦は、中等教育段階レベルからみれば、生徒の多様な能力を評価して、より上位の学校段階に進む方法の一つとして、例えば家庭環境による教育の格差を是正する働きをもっていると評価できる(西島編著2006)」(13頁)と書かれていることを色々な角度から考えたいというところでしょうか。

     

    【翻訳】よい教育:それは何であり、なぜそれが必要なのか

    • 2014.06.12 Thursday
    • 19:02

    ガート・ビースタ(Gert biesta)ルクセンブルク大学教授による「Good Education: What it is and why we need it」を翻訳しました。原文はこちら(PDF)になります。翻訳はビースタ教授による許可をいただいております(私の拙い英文メールにも丁寧に応答していただいた!)。

    なお、ビースタ教授のLearning democracy in School and Societyという著作は、2014年2月に『民主主義を学習する』(勁草書房)として翻訳・刊行されています。

    *********************************************************************************************

    よい教育:それは何であり、なぜそれが必要なのか

     よい教育の必要性を主張することに議論の余地はない。しかし、詳しくみてみると、よい教育の理念が急速に別の概念に置き換わっているのがわかる。その一つは、効率的な教育という概念である。もう一つは、教育についてというよりも、むしろ学習について、生徒の学習支援に関する教育的営為についてである。前者がよい教育の“よい”という概念に挑戦しているのだとすれば、後者は“教育”という概念に挑戦している。いったい私はなぜこれらのことを問題視するのか?
     
     まず教育の効率という点についての問いから始めよう。一見すると、効率的な教育という考え方に反対することは難しいが、効率的な教育がそのまま“よい”教育というわけではない。“効率的”とは過程についての価値である。すなわちそれは、ある目的・結果を引き起こす特定の過程の効力についての価値である。しかしそれは、その結果が望ましいものかどうかとは関係がない。乱暴な例えになるが、効率のいい拷問方法と効率の悪い拷問方法があったとしても、そのことが拷問自体を正当化できるのという事、また拷問自体が他の問題解決方法に比べて効率的かどうかは関係ない。ゆえに、問題となるのは、教育が効率的であるべきかどうかではない。意味のある問いとなるのは、教育が何に対して効率的なのかということである。加えて私たちが気をつけるべきは、ある生徒にとって効率的であっても他の生徒にとってはそうとは限らないという事実である。“何に対して効率的であるのか?”“誰にとって効率的なのか?”と問う必要があるのだ(Bogotch, Miron & Biesta 2007)。
     
     近年、教育に関する事柄を学習という言葉で表そうとする傾向がある。以前の著作(Biesta 2010)で私は、教育の世界に“学習という新しい言語”が拡がっていることについて論じたことがある。生徒や学生を“学習者”という形で位置づけ、教えることを“学習支援・促進”として位置づけ直す、もしくは“学習経験の伝達”として再定義し、学校を“学習環境”、もしくは成人教育を“生涯学習”として位置づけなおすというものである。私はこうした拡がりを教育言説・実践の“学習化”(learnification)と呼んだ(Biesta 20101章を参照されたい)。こうした動向には問題があると思っており、あえて響きの悪い言葉を選んだ。さて、その問題とはなんであろうか。
     
     端的にいえば、教育のポイントは生徒が学ぶことそれ自体ではなく、かれらが何を学ぶのか、それを誰から学ぶのかということにあり、そしてそれをどんな理由で学ぶのかということにある。違う言い方をするならば、教育とは常に内容関係性目的についての問いを伴うものである。“学習”の言語は“教育”の言語とは大きく異なっている。それは、第一に学習は過程を意味するものであるが、教育は目的や中味に関心がもたれ、またそうあるべきものであるということだ。第二に学習は個人主義的で、個人化(individualizing)を促すような言葉である。あなたが「学習する」という時、それは常に自分だけが学ぶ行為を意味している。他方、教育はいつも教師と生徒の関係性をめぐる問題である(Biesta 2012)。加えて、私たちは“学習”が、自転車を乗るのを学ぶ、E=mc2であることを学ぶ、我慢することを学ぶ等、全く異なる営みに及んでいることを認識するべきである。教育の論点は、生徒が学習するということや、教授が生徒の学習支援をするという事だけではない。教育を学習に置き換えることは、その内容と目的についての論点をなくすも同然なのである。しかし、教育を取り巻く外部の影響によってこのような考え方が学校教育の中では氾濫しつつあるようだ。
     
     “よい教育”について語ることは“効率”や“学習”という空虚な概念に対抗するために重要なことである。また、それはよき教育とは究極的には規範的な問いであって、技術的なそれではないということに強調するものである。それは専門的かつ民主的な熟議により、何をもって価値とするかの精査を必要とする。そのような熟議で最初に焦点があたるのは何か。鍵となるのは何のための教育であるのか、すなわち教育を通して、学生たちのために、そして学生たちとともに、何を達成したいのかということだ。教育において、目的についての問い自体からして多面的なものであると知ることは有益である。私が考えているのは、全ての教育は潜在的に、少なくても、三つの領域についてのインパクトを有しているということである。〇餝福蔽亮院技能、学生がある特定の能力を有することを保証する性質)⊆匆餡宗紛軌蕕六笋燭舛鯏租や生活・行動様式と結びつける)主体化(教育は良きにつけ悪しきにつけ私たちの人柄もしくは主体化に影響を与える)。教育がこれら三領域のそれぞれに潜在的な“影響”を及ぼすのであれば、教育は三領域におけるそれぞれにおいて達成しようとするものへの責任を負うことになる。このことは何のための教育なのかという問いについて反省することになる。私達はこの三つそれぞれに少しずつ異なる方向へ引っ張られ、この三つの良い配分、意味のある配分とは何かについて考えさせられ、また、この三つの間でどんなトレードオフなら許容範囲内か模索させられる。私見では、教育は何のためになされるべきなのかと問うことは、効率的な教育もしくは学習の促進という言葉で教育を理解するという空虚な試みよりも教育に深さや意味を与えることになるだろう。
     
    参考文献
    Biesta, G. J. J. (2010). Good education in an age of measurement: Ethics, politics,democracy. Boulder, CO:Paradigm Publishers.
     
    Biesta, G. J. J. (2012). Giving teaching back to education:Responding to the disappearance of the teacher. Phenomenology & Practice, 6(2), 35-49. 
     
    Bogotch, I., Mirón, L & Biesta, G. (2007). “Effective for what; Effective for whom?” Two questions SESI Should Not Ignore. In T. Townsend (Ed.), International handbook of school effectiveness and improvement (pp. 93-109).

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    ビースタ教授の著作や論文は以前から読んでおり(以前書いたものの中で「ゲルト・ビエスタ」と私は書いていましたが)、自分の勉強のためだけに時々抄訳を作るなどしていました。なぜこちらを翻訳したのかというと、職務柄、“学習という新しい言語”に向き合うことが多く、それについて思考し、自分の授業においても模索を続ける一方、それが何処を目指したものなのかを確認したいという気持ちを日頃から強く持っており、その中でこのエッセイに出会ったという経緯です。

    誤訳があることを心配しています。お気づきの点ありましたら、ご連絡ください。

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